連載『学校へ戻りたい それから』

学校へ戻りたい それから(上)

十五年と八か月で逝った東 慧(あずま さとし)君の棺を乗せた黒い車列が、京都市の大通りを斎場へと向かう。中学校のコンクリート正門の前を通りかかった時だった。一台の車の窓が開き、純白の一輪のカーネーションが門に向けて宙を舞った。

今年七月十二日。翌日に梅雨明けを控えた街は、どんよりと曇っていた。慧君は、小学四年で脳腫瘍が見つかった。闘病しながら三年前、この中学に入学した。病状の悪化などで、昨年四月から養護学校の訪問教育を受け、卒業式はそこで迎えた。

「この中学に戻りたい」と願い続けた愛息の思いを母親の由美子さん(45)は小さな花に託して投げたのだった。

精一杯生きたこと 心にとどめていて

卒業前、「慧君の写真をアルバムに載せたいので(同校に通う二つ違いの)妹さんに持たせて下さい」と中学から電話があった。「やはり会いに来てはくれないのか」。弱々しくソファに横たわる慧君を見ると、連絡をする気にはなれなかった。「中学では寄り添ってくれる先生も友達もいなかった」。由美子さんは振り返る。

金尾幸則さん(36)は昨年四月にその妹の担任教諭となり、何度か家を訪れる。初めての家庭訪問の際、「妹をよろしくお願いします」と慧君が頭を下げた。その後も訪れる度に、同じように頼まれた。

慧君の葬儀に参列して学校へ帰る途中、金尾さんはそんなことを思い出していた。職員室に入ると、自分の机の上に一輪の白い花。由美子さんが投げた花だった。見ていた生徒らを通して金尾さんの元に届いたのだった。

花に込められた複雑な思いが感じられた。「慧君がこの中学にいたことを子どもたちに伝えなければならない」。だが、慧君と接していない生徒たちに理解してもらえるか。踏み出せずにいた。

一週間後の夜、金尾さんは初めての子を産んだ妻のため、産婦人科医院にいた。新しい命を喜んでいた時、由美子さんからメールが入った。「慧のことを伝えてほしい」。運命を感じ、踏ん切りはついた。だが、どう伝えたらいいのか。ぎりぎりまで迷った。

脳腫瘍で逝った慧君 母は願い 教師が語り伝えた

二十日の一学期の終業式。教室にいる全校生徒に、校内放送が流れた。「君らに伝えておきたいことがあります」。金尾さんが放送室でマイクを握る。慧君の病気や障害のこと、この中学に戻ってきたいと熱望していたことなどを語った。そして、

<(慧君が)最後まで精一杯頑張って生きたことを、心のどこかにとどめておいてほしい。そして、限りある人生を大切に生きてください。慧君はそういう人の中に生き続けてくれる>

どう受け止められたか心配だった。ほかのクラスの先生に様子を聞いた。「じっと聴き入ってたよ」。自分のクラスに駆け込み、生徒の表情を見て安心した。放送中、一人の子がちゃかしかけたところ、別の子が涙を流しながら「そんなこと言わないで」とたしなめたという。

「話してよかった」。金尾さんはそう思った。

由美子さんが葬儀の日に投げたカーネーション。
金尾さんは携帯電話にその写真を収めて今も保存している。
(京都市内で)

連載「学校へ戻りたい」の六月二十九日付(メルマガNo.25 学校に戻りたい(3))で遼君(仮名)として紹介した東慧君は、脳腫瘍でいつ尽きるかも知れない命を小学生のときから六年間も見つめてきた。「友達や先生に会いたい」。学校に希望を抱きながら難病と闘う子どもは多い。慧君を支えた人たちの姿を追った。(増井 哲夫)


読売新聞 2004年11月2日付
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